木の上のあねさま(化け猫)

(青森県、津軽)

昔、昔あったづもな。
昔、村の真ん中に大きな銀杏[イチョウ]の木があって、
木の下に墓のある村があった。

晩げになったら、
銀杏の木の上に裁縫をしているあねさまがいた。
あんどんをつけて、針仕事をしている。

成田キヌヨさん
成田キヌヨさん
(撮影:藤井和子)

いや~、村はマタギの村だったので、
鉄砲打ちが多かった。
それで、あねさまに向かって
何ぼ鉄砲を打っても一つも当たらない。
その内に、

“あれは、きっと化物だ。
村サ、いたずらしないように、誰か退治してくればいいな”

と、噂になっていた。

どんなに鉄砲の名人がやってきて撃っても、当たらない。
きれいなあねさまは、あんどんをつけて、
知らないふりして、裁縫を続けた。
あねさまに向かって撃ってもだめ、あんどんもだめ

・・・どこかに当たっているはずだけど、あねさまは下に落ちない。

・・・どこに向けて撃ったらいいのか?

不思議なことだ。

あるあんさま(既婚の男の呼び方)が、
“どれ”と、思って行ってみると、
やっぱりあねさまが木の上にいて、あんどんの下で、裁縫をしていた。
あんどんの蔭にあねさまの影が映っていた。

・・・そうか、わかった。

男の頭に何か閃いたのですね。

あねさまの影に向かって鉄砲を撃った。
あんどんの明りがぱっと消えて、
何かが、ドッサンと木から落ちる音がした。

・・・イヤ~、こりゃ、しとめたかな。

翌日、明るくなってから村の人達と行ってみたところ、
何も見あたらなかったが、落ちたあたりには血の跡が付いていた。
あんさまは、血の跡を辿って、山に行ってみた。
川を越えた山の向こうに洞穴があって、
そこまで血の流れた跡が続いていた。

・・・ここサ、隠れている。

近くまで行くと、童(わらはんド)が、二人遊んでいた。

「ここへ、来たか、来ないか?(ここサ、来たか、来ねか)?」

「誰も来ないよ(来ね)

と一人が言った。
もう一人の子どもが、

「自分ちの、お父が夕べ村で怪我して、
奥の座敷で寝てるよ(おらほのおど、夕べ、村で怪我して、奥の座敷で寝てら)

と言った。

・・・だったって、こいつら、人の子どもみたいだしなア。

・・・それにしても、まず正体見ねば、な。

するとそこに大きな唐猫[からねこ]が、
頭に包帯を巻いて、う~ん、うん、うなりながら寝ていた。

(唐猫には由来があり、中国の飼いネコが輸入され
9世紀末には平安朝の宮廷で愛玩された、といわれています。
関西では聞いたことのない唐猫という言葉が青森で残っているのでしょうか)

・・・こりゃ、あの化物だ。
こいつをこのままにしていたら、村に災いをもたらすに違いない。

そう思って、銃口を向けて、とどめをさした。

化物は死にぎわに、こう言った。

「お前な(おめな)、よくも自分(わ)を殺したな。
こういう目にあわせれば、ただでは家に戻れないぞ。
家に戻るには、
茨原(いばらの原)3年、茅原(かやのはら)3年、
石殻(石ころの原)3年歩いて、
やっと戻れるんだ。
9年かからねば家サ、戻れねえ」

アノ化物、こんなことを言っていたけれどもなア、
と思いながら、洞穴から表に出た。
すると・・・
ヤヤヤ、いや~、どこまでもどこまでも茨の原になっていた。

・・・さあ、大変だ。やっぱり本当だな。

一生懸命歩いたが、
手といわず足といわず身体中いばらに引っかけられた。
汗を流し、血を流しながら歩き続けた。

村では、

「あのあんさま、夕べ化物退治しに行ったって聞いたけど、
どったことになったんだか、
ハ! 神隠しに遭ったんだか、家サ戻って来なくなった」。

「村中で探しても見つからねえ。仕方ねえ、こりゃ命落としたんだ」

村では葬式を出していた。

その若い者は、ただただ山の中を歩いた。
歩き続けて、ハ! 髪はぼうぼう、手足の爪も延びて、
化物の格好になっていた。
山の中で歩いている内に、今度ア、
[かや]の茂ったところにプーッと出た。

・・・はあ~、3年歩いたんだな。

・・・まだ、わ(おれ)は、こうして生きている。もしかすれば、
生きて家に戻れるんでないか(もしかへば、生きて家サ、戻れんねだか)

又、頑張って、その茅原を歩いた。

3年暮らして、石がごろごろしている石の原に出た。
大きな石のあるところで転んで、面の皮がはげて血だらけになったり、
手足には豆が出たりした。
もはや本当の化物の姿になった。

化け猫
化け猫
(合巻挿絵〈1842年〉、所蔵:津田真弓氏)

それでも命があるので、また歩き続けた。
石ころの原を3年歩いたら、

うわっ!

わが家の前にぶるっと出た。

「わ(自分)、今、戻った!」

って飛び込んだら、家の者は、

「あれ、化物来た!」

と言って、中に入れてくれない。
落ち着いてよくよく見たら、
家の息子でねえか。

とっちばれ

成田さんの後がき“だから、いたずらしねえ生き物を、いじめたり殺したりするもんでねえど。”“いたずらして悪いことをしたら、仕方ねえけども、生き物の命とることは、それほどのことなんだ、わかったな。”と、母から聞かされたものだった。)

白神山地の空撮
白神山地の空撮
(写真提供:西目屋村企画観光課)
<画像をクリックするとオリジナル画像が出てきます。(下の美山湖の写真も同じです)>

スーちゃんのコメント



【語り部】 成田キヌヨさん
(昭和7年<1932年>9月11日生まれ)
【取材日】 2004年5月23日
【場 所】 十和田市、民宿ぽぷり
【紹 介】 佐々木達司氏 (民話研究家)
【方言指導】 井澤智映子さん (青森県東京観光案内所)
【取 材】 藤井和子

1993年、白神台地のブナ原生林が
日本初の世界遺産(自然遺産)として
登録されたことは、周知の事実であるが、
成田キヌヨさんは、その白神台地のすぐ下の西目屋村、
砂子瀬地区で生まれ育ったという。
砂子瀬地区は、美山湖(目屋ダム)の一部として計画されたため、
湖底に沈む予定となり、
昭和34年に村全部が移転した。
その目屋ダムは、昭和28年に着工して、
昭和35年に多目的ダムとして竣工した。

美山湖(目屋ダム)風景
(写真提供:西目屋村企画観光課)

文字で書けばたった数行にしかならないが、
村が、故郷が消えてなくなるということは、
多くの価値ある懐かしい思い出の場所が
永久に消え去ることだ。
村の文化的遺産(昔話はむろん、民俗学上の習俗など)
残ったのだろうか?
どのような形で??

話は飛ぶようだが、
平成の合併についても、固有の村文化が消失することを感じている。
文化の伝承と経済効果、
前者は百年のオーダーであり失って初めて
大切さが分かる。
経済効果は即効性そのものだから耳目を引きやすい。
土台、その派手さではアッピール度が違う。
中央は助成金など主に経済的な援助をちらつかす。
経済がらみでいえば、
考えても考えてもこの問題は泥沼になるが、
すぐに飛びついていいのかどうか。
文化伝承の視点で言えば、
各地を取材するごとに年々危惧の思いは深まっている。

当時、水没する村の民俗学的な調査が入った折り、
成田さんは協力したそうだ。
そのとき記録用に語った昔話は100話近く。

「今も百話くらいは、何とか頭のどこかに残っていると思います」

と、しんみりと語った。

成田さんは、祖母ほども年の離れたお母さんから
「むがしっこ」(昔話)を聞いて育った。
スーちゃんは、成田さんの結びの言葉・・・

“だから、いたずらしねえ生き物を、
いじめたり殺したりするもんでねえど。”、
“いたずらして悪いことをしたら、仕方ねえけども、
生き物の命とることは、それほどのことなんだ、分かったな。”
と、母から聞かされたものだった。

この文言から、
“人間として、やってはいけないことを
きちっと教えられたんだな、
素晴らしい教育をお母さんから受けたんだな”
と、感激した。