安達ヶ原の鬼婆
昔々な、京都のあるお大臣さまのとこサ、
それはめんげえお姫様、生まれやったど。
皆に大事に育てられたが、何としたことか、
5つになっても、口利けねえ、
しゃべれねえんだど。
(次からは全国区の読者のために、会話だけを方言にして話を進めます)
お大臣も奥方さまも心配して、
あちらこちらの医者に診て貰った。
どの医者も
「これは生まれつき口が利けねえ病いだ」
というばかり。
そう言って見放された。
親としては、それでもあきらめないで、治るものなら治してやりたいと、
拝んで貰ったり占い師に見て貰ったりした。
あるとき一人の占いが、こう言った。
「この病いを治すには、
オナゴの腹の中にいるヤヤ(胎児)の生き肝を食わせたら治る」
お大臣も奥方さまもたまげてしまった。
・・・どうしても治してやりたい。
しかしなあ、まだ生まれてもいないヤヤの生き肝なんて、
どうしたら、よかろうか?(なじょしたら、いいべ?)
(考えても考えても妙案がうかばなかったのですが、
親心は子どものためには、何でもするのです。ついに・・・)
乳母の岩手を呼んで言った。
「姫のために、どうかヤヤの肝を手に入れてくれないか(くんねえか)」
乳母は話を聞いて、青くなった。
・・・恐ろしい、恐ろしい!
使われている身だから、
お大臣と奥様の二人に頭を下げて頼まれると、
厭とは言えなくなった。
泣く泣くヤヤの肝を求めて、旅立つことにした。
自分の腹を痛めたかわいい娘、こずえ(謡曲では、恋衣)には、
形見のお守り袋を残した。
娘の首に、母岩手と書いたお守りをぶら下げて、
追いかけてくる娘に頬ずりして
涙をこぼしながら出かけて行った。
行けども行けどもヤヤの生き肝なんて、見つからない。
とうとう京の都からはほど遠い、
安達ヶ原まできてしまった。
・・・むやみやたらに歩いたって仕方がねえ。
ここらでどっか、小屋でもめっけよう。
旅の女[おなご]、腹の大きなおなご、
待つことにするべ。
ちょうどいい岩屋を見つけて、そこにすみついた岩手であった。
それから何年も何年も経った。
美しかった岩手も白髪混じりの婆さまになっていた。
ある日のことだった。
「旅の者です。この野原で道に迷ってしまいました。
どうか一晩、泊めて下され」
という声がした。
外には、旅姿の若い夫婦が立っていた。
男の後ろにいる女は、どうやら腹が大きい。
・・・ヤヤがいるんでねえか!
「私は生駒之助と申す者でございます。妻は身重の上、
腹をすかせております。
どうか一晩、泊めて下され」
岩手は、内心
“ああ~、長いこと待っていた甲斐があった”
と、喜んだ。
そんな思いはおくびにも出さずに、
親切そうな顔をして言った。
「それは、それは大変だな。一晩でも二晩でも、泊って貰うべ」
囲炉裏端にわら布団を敷いて若い女を休ませたが、
しばらくすると、
身重の女は腹痛を起した。
婆さまは、親切そうにこう言った。
・・・この安達ヶ原の野原のはずれに峠がある。
そこで腹痛の薬だの安産のお守りだのを売っているから、
腹痛の薬を買ってきて、飲んだら楽になるのでねえか。
婆さまは、男を案内して峠の薬屋まで出かけた。
ちょっと歩き出すと、岩手は言った。
「薬をつくるのに、ちいっと時間、かかる。オラ一足先に戻るワ」
一人で寝ている若い妻のことが心配なので、
男はうなずくと先を急いだ。
とって返した婆さまは、
女の傍に寄っていって心配そうに言った。
「ところでどうだ。腹の具合は?」
女の隙を見て、隠し持っていた出刃包丁を逆手に構えると、
背中めがけてどさっと一突きにした。
そしてはあ、腹、かち割って、
腹の中からヤヤを取りだして、肝を手にした。
肝をたかだかとかざす姿は、
もはや人間には見えなかった。
・・・やっと、やっと念願かなった。これで都サ戻れる。
・・・そうだ。男が戻ってくるまでに、このおなごの身体、
清めなくてはなんねえ。
岩手が、おなごの身体に手を掛けたその時、
首のお守り袋が見えた。
・・・あれ、どこかで見たことのあるお守り袋だな。
・・・何としたことか! ああ、あ~あ。
昔、都を出るときに、
かわいい我が娘の首に掛けてやった
あの守り袋ではないか。
・・・ああ、む、娘を手に掛けた!
何ちうこと、しちまったか。
岩手は、頭をかきむしりながら、泣いた。
泣いて泣いて泣いて泣いて、とうとう頭がおかしくなってしまった。
旅の人が来ると、殺しては食う、殺しては食う、
岩手は、本当の鬼婆になってしまった。
それから、何年かした秋の日だった。
聖武天皇の頃、
阿闍梨祐慶東光坊という熊野の高僧が修行僧として、
はるばる奥州の安達ヶ原にやってきた。
当時の安達ヶ原は、
どこを向いても茫々とした大草原であった。
秋の日はつるべ落とし、
暮れなずむ一面の野原には、一軒の廃屋さえ見当たらない。
足はもう一歩も動かず、食べるものもなく
絶望に身をまかせてぐったりと傍の岩に寄りかかっていた。
目を閉じて、観世音菩薩のお経を唱え始めた。
読み進むうちに、何と・・・
はるか彼方に一点の火影が見えた。
それは、誰あろう、あの岩手の棲む岩屋であった。
「旅の者ですが、どうか一晩、泊めて下され」
岩手が戸をあけると、一目で旅の坊様だと分かった。
「上がって貰うべか。
だども何もねからな。火だけがもてなしだ」
岩手は囲炉裏にゴンゴン、薪[まき]をくべた。
だいぶ経って、たきぎが無くなると岩手は言った。
「おれな、ちょっと裏の木小屋まで行ってくるからな」
なにやら口ごもるそぶりで、
奥の間になっている一間を指さしながら、
「おれ、一人暮らしでな。
汚くしてるから、そこの戸なんて、
決してあけるでねえぞ。覗くでねえぞ」
と、繰り返し繰り返し言い置いて、出て行った。
・・・たかが老婆の一人暮らし。
なぜあれほど固く見るな、というのだろうか。
坊様も人の子、
だんだん好奇心で頭がいっぱいになった。
・・・奥の方から生臭い風がぷうんとしてきたぞ。
南無三、
・・・寝室の戸を静かに開けると、
人の骨、骸骨が山積していた。
鼻をつまみたいほどの死臭が押し寄せてきた。
血まみれの四肢やはらわたが、見るのもおぞましく目に入った。
「こ、これは!
ここが鬼婆のすみかだったか。あ、あの名高い安達ヶ原の!」
次に食われるのは自分だと思うと、
東光坊は、笈を背に一目散に逃げ出した。
一足違いで小屋に戻った鬼婆は、
「あれはど見るな、といったのに、見だな!」
と、怒りの形相で、東光坊を追いかけた。
その姿は、もはや人のものではなかった。
髪はザンバラ髪に乱れ、
目はつり上がって、口は耳まで裂けていた。
かねてからギラギラとぎすませておいた出刃包丁を振りかざし、
破衣の小褄[こつま]を手挟んで、
ものすごい速さで追いかけてきた。
次第次第に鬼婆が近づいてくる。
・・・相手は魔性のもの。もはやこれまで。
坊様は観念して、
背中の笈から如意輪観世音菩薩を取り出すと
一心不乱にお経を唱えた。
すると、真っ暗闇の中、
空中高く如意輪観音が浮かび上がり、
その手からさあっと光の矢が出た。
白羽の破魔矢であった。
その数知れない矢が鬼婆の胸元を貫いた。
東光坊の頭上にひらめいた出刃包丁はそのまま止まって、
老婆は片手を揚げたまま、
最後を遂げた。
わが娘、わが孫を手に掛けた生き地獄に落ちて苦しんだ岩手は
ここに倒れたのであった。
岩手の生き地獄を終わりにして救ったのも観音であった。
東光坊は、命を救ってくれた観音様を祀り、
岩手を哀れんで、村人が葬ったところは今も黒塚と言われている。
(小鮒さんの解説:“今でも残っているんだな、この歌が。”
と言いながら口ずさんだ。)
陸奥[みちのく]の 安達ヶ原の 黒塚に
鬼こもれりと 聞くはまことか 平 兼盛
(昭和27年<1952年>11月28日生まれ)
二本松市の安達ヶ原は、
陸奥へ向かう街道沿いの原野であった。
今では、郡山市と福島市に挟まれた交通の要所として、
行き交う車の往来も激しい。
北には「智恵子抄」(高村光太郎作)
の智恵子が詠んだ安達平良山[あだたら]が、
中心部には阿武隈川が流れている。
双方が見えるスポットがあるそうだ。
午後もかなり過ぎていたので、
薄日の射す空からは、智恵子の懐かしんだ
「本当の空」を見ることは出来なかった。
東北本線の「二本松駅」を下車して、
駅前からバスに乗る。「安達が原入り口」まで15分。
寺の山門を入ると、観世寺(天台宗)の敷地になる。
この寺のまわりは、謡曲「奥州安達原」や
歌舞伎「安達原」で有名な
「安達ヶ原の鬼婆」の伝説の舞台なのである。
まず、能作者、金春禅竹(鎌倉中期1405~1470頃)作の
謡曲が出来て評判を取り、歌舞伎としても演じられた。
「謡曲を元にして観世寺に伝わる寺の縁起となったと推察される」
という人もいる。
(HP 安達ヶ原 を参照されたい)
そういった知識もそこそこに、
一歩山門をくぐったス-ちゃんは、全く別のことを考えていた。
敷地の配置をざっと述べる。
山門のすぐ左手の一角に累々と重なる巨石がある。
どうやってここに置かれたのか、
とてつも無い大岩だ。
伝説では、前出の写真のように張り出た笠岩の下に
鬼婆が棲んでいたという。
実際は、すぐ隣に粗末な小屋を造って
侘び住まいをしていたらしい。
正面に観世寺の本堂がある。
鬼の岩屋に隣接して「白真弓観音堂」がある。
このお堂には、如意輪観世音菩薩(行基の作)が
祀られている。
祐慶東光坊の祈りに応じて、
鬼婆となった岩手を退治した秘仏は、
この菩薩の胎内に安置されていて、
60年に一度開帳されるという。
山門右手には待合所のような建物があり、
壁面には、寺の縁起絵巻物の一場面ずつを極彩色に描き、
扁額に入れて、スピーカーから画面の説明が流れていた。
敷地内のこれらのサイトは、
一時間とかからず見て回れる距離である。
建物はそれぞれいわくがあって、
それがチマチマとならんでいる。
“これは、ミニとはいえテーマパークではないか”と、思った。
巨石群(傍の夜泣き石)
→ 菩薩像を格納している白真弓観音堂
→ 鬼婆が包丁を洗ったという血洗の池
→ 観世寺本堂
→ 寺の縁起を聞かせる建物
→ 鬼婆の石像、
すぐ外の杉の木の根もとには、
鬼婆の墓(黒塚)の土盛りがあった。
鯉がのんびりと泳いでいた。
この場所には歴史があり、
鬼婆にまつわるドラマを追体験できる楽しさがある。
この話がかつて、謡曲や歌舞伎で大当たりを取ったのを
思い起こせば、魅力度のヒントになる。
テーマパークといえば、TDL(東京ディズニーランド)
や日光江戸村、東映太秦映画村(京都)
のようなどでかい人工的な建造物を連想するが、
ナニ、ちっこいものだってテーマ次第で人ははいる。
(株)ファームの運営する農業型テーマパークは
比較的小規模だが黒字になっている。
また来たいな、の魅力を創り出せるかどうか、である。
テーマパーク(レジャー産業)は、
人の心を市場とするビジネスであるから、
行ってみたら、とても面白かった、
他では模倣できない綿密に計算されたソフトがあった、
という単純さが、かえって大変な難題かもしれない。