味噌五郎

(長崎県、島原半島、南島原市<旧西有家町>)

島原半島は、宗教的なカリスマ性を持つ美少年、天草四郎時貞が指揮した農民による宗教一揆、島原の乱で有名である。
(1637年10月からボチボチ始まり、翌年2月に落城した。)
農民のキリシタン信徒3万7千人が、 12万余の幕府軍の総攻撃を受けて、3ヶ月後、 飢餓の中で全滅するという悲劇的な終末を迎えた。
その後、1792年には、大地震で市の背後の眉山が崩壊し、 前に広がる有明海に崩れ落ちた。
引き起こされた津波は、有明海を、な、なんと! 3往復した。
対岸の天草(熊本)沿岸一帯は、甚大な津波被害をこうむったころから、 これを「島原大変、肥後迷惑」という。 島原でも天草でも、民話取材の合間に、今なおたびたび耳にしたフレーズである。
約200年後の1990年11月17日、眉山の背後にある雲仙普賢岳の大噴火により、 土石流・火砕流など大自然の猛威で再び甚大な被害を蒙ったことは、記憶に新し い。

夏の平成新山
夏の平成新山(標高1686m、雲仙岳の最高峰)
(写真提供:長崎県観光物産センター)

諌早駅から島原鉄道に乗り換えて、
島原半島をずっとめぐる2時間3分の汽車の旅だった。
車窓の右方には、きらっきらっと群青に輝く、
眠むたげな五月の有明海が広がる。
JR西有家駅で下車して、雲一つ無い南国らしい青空のもと、
白っぽい県道をぽくぽく歩く。
すぐあちこちに、XX製麺工場という大きな立看板と
素麺工場の黒っぽい屋根が出迎えてくれる。

島原地方は生産高、全国第2位の島原手延べそうめん(須川そうめんともいう)を地場産業に持つそうめんの一大産地なのだ。
ここ、西有家町はそのリーダー格として、 町内には約200軒の素麺製造業者がひしめき、その殆どが成功者となっているらしい。
そうめん作りは、島原の乱後2~3年経って、天領だった小豆島から移住した人々が伝えたという。 不肖ワタクシ、小豆島人にとって小豆島のそうめんは、 のど越し冷めたい小豆島人の夏のごちそうである。
小豆島そうめんを先祖に持つという、ここ島原のそうめんは、どのようなものか、何だかわくわくしながら、取材先の役場に向かった。

この町は“味噌五郎やん”(やんは兄のこと)という、とてつもない大男を町のシンボルとして町起こしをはかっている。

味噌五郎橋の味噌五郎やん
味噌五郎橋の味噌五郎やん

彼は、町の最高峰、高岩山(たかいわさん、標高881m)に住み、食べるものといったら、とにかく味噌が大好物だった。
いったい、味噌五郎とはいったいどういう大男なのか?

教育委員会のお世話で、町役場の企画振興課主任、嶋田惣五郎さんにお会いして、次のような話をうかがった。
嶋田さんは民話資料の「西有家町に伝わる民話」を作成したときに、味噌五郎の話を採話した。それによると。

味噌五郎とは、
昔むかし、高岩山に大きな男が住んでおった。
この大男、人が良く、力持ちで誰からも好かれた。
味噌五郎やんは畑仕事をしたり、山を切り開いたりして、
百姓から味噌を分けて貰っておった。
とにかく味噌が大好きで一日に4斗もなめるもので、
「味噌五郎やん」と呼んでおったげな。

(こんなに味噌を食べたら、村にある味噌はすぐ底を尽きますがねと、
スーは思った。)

朝起きて雲仙岳に腰を下ろし、有明海で顔を洗い、
高岩山の八間石に足を乗せて、天草の山々や有明海や、
八代の海を眺めて楽しんだ。

雲仙のつつじ(霧島ツツジ)
雲仙のつつじ(霧島ツツジ)
(写真提供:長崎県観光物産センター)

そのころ遊んだお手玉石や足跡の大きな窪みが、
今も高岩山に残っている。

今日も、大きな鍬[くわ]をかついで、畑にする仕事をしておった。
屈みっぱなしでいたので、
腰を伸ばそうと「よいしょ」といって、鍬を地面から引き起こした。
その反動で尻もちをついてしまった。
その土くれが有明海に「ざぶん」と音を立てて
落ちて出来たのが湯島となり、
堀った後が、雲仙の空地になったそうな。

ある日、肥えたんご(下肥え桶)を担って
高岩山の前まで来た時じゃった。
急に地面が搖れだし、味噌五郎やんは「どさっ」と倒れ、
足にけがしてしもうた。
休んでいる内にそこら辺りは血の海になったそうな。
それ以来、ここの土が真っ赤になってしまったということじゃった。
今でもこの赤い土を
味噌五郎やんの血の土というておる。

嵐の日があった。
風が音を立てて舞い、今にも家が吹き飛ぶような不気味な日じゃった。
船は前もって綱で結ばれておったが、
次々と大波に流されそうになり、
漁師達はつなぎ止めようと一生懸命じゃった。
みるみるうちに船は木っ端のように流れていってしもうた。

高岩山から見ておった味噌五郎やんは、
ひょいと海岸に飛び降り、嵐の海の中に入ってゆき、
沖に流されている船を何漕もつないで、
船ば陸に向かって引っ張ろうとして波に流されそうになったげな。

「こぎゃん風に負けられんばい」

と、力まかせに引っ張って陸に揚げてしもうたげな。

「よかったない」

「味噌五郎やん、ありがとう。
あんたのおかげたない」

と、言いながら、味噌汁でもてなし喜びあったそうな。
村人達から大いに感謝されながら
幸せに暮らしたということじゃった。

【原話者】高橋 喜弥次さん、【原採話】嶋田 惣五郎氏

資料:西有家役場刊「西有家町に伝わる民話」より)

スーちゃんのコメント



【取材日】 2000年5月10日
【場 所】 西有家町教育委員会
【取材協力者】 相川 義廣教育長、嶋田 惣五郎氏
【取 材】 藤井和子

嶋田惣五郎さん(50)は子どのの頃、
おじいさんやお年寄りから

“そんないたずらをすっと(すると)
味噌五郎やんを連れてくっど(来るぞ)。”

と、たしなめられたという。
それもそのはず、
子どもには、想像もできない大男だった。

教育委員会の応接室の窓外には、
きらりと光る紺碧の島原湾が見晴らせて、世はことも無し、
居眠りしそうにのんびりした昼下がりだった。

嶋田惣五郎氏と相川義廣教育長
左から、嶋田 惣五郎氏と、相川 義廣教育長

嶋田さんは、ずっと向こうの島原湾に浮かぶ
こんもりした緑の小島を指さして、

「あの島は、湯島というんです。
味噌五郎が雲仙岳にいて鍬[くわ]で池を掘っておった時、
土くれがぽーんと飛び込んで出来た島なんです」

スー「ふうん、で、体格は実際はどうだったんですか?」

嶋田氏「味噌五郎は高岩山に腰掛けたといいます。
足をふんばった時に出来たのが足型をした諏訪の池。
まあ、881メートルの山に腰掛けたんですから、
そうですな、・・・推測するに、
背の高さは2000メートル級、なんと!」

同席していた相川教育長とスーちゃんの3人は、
思わず“あはは”と、笑った。

味噌五郎は、ぼうようとした風貌に加えて、
誰も知らない内に家の向きを変えることが出来る力持ち、
人のために尽くす行動により、
ついにこの地方の伝説的な
“4傑の1人”にのし上がったらしい。

役場の庭の味噌五郎の坐像
役場の庭の味噌五郎の坐像

○四人とは、有名な天草四郎時貞
海を歩いて渡る奇術師で「天草・島原の乱」を指揮、
16歳で戦死した。
なお不思議な経過で西有家町に埋もれた墓石が
見つかり、掘り出された。
供養の後、終焉の地、原城に移された。

○絵師の山田与茂作
描いた絵から実物が飛び出て来るという
伝説の蘭画の名手。
ただ一人生き残ったことから、
幕府側のスパイだったとされる。

懸針[さげばり]の金作
かもめ10羽を一度で射ることの出来た弓の名手。

○それにこの話のヒーロー、
力持ちで鳴らした味噌五郎やん

いずれ劣らぬ能力の持ち主である。
スーちゃんは、民話の中のヒーローとはいえ、
味噌五郎が、「島原の乱」の頃に居たというのは、
ちょっとね、と思ったけど。
他の3人は実在の人物である。

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楽しい一日の締めくくりは、
やはり冷え冷えのそうめんに冷やしたビールで
キュッと行きましょう。ラン、ラン、ラ、ラ、ラ

スーちゃんは、教育長の案内で、
須川そうめんの美味しい店に行った。

・・・な、なんと、
ここの名物のそうめん料理というのは、ね。
南国だから?
唐がらしの入った煮込みそうめんの
“そうめん地獄”というの。