河童石のいわれ

(長崎市)

水神社[すいじんじゃ]は、長崎市に古くからある由緒正しい神社である。
長崎の河童の話を探していたとき、
偶然、河童と縁の深いこの神社にたどり着いた。
犬も歩けば、棒に当たる、か。
いやいや、犬だって、坂の多い長崎市内を歩き回るのは難儀するでしょ。

水神社は、本河内[ほんごうち]水源地の下の方にあり、神社の前には長崎市の真ん中を流れる中島川が見える。
境内の奥にある鳥居の脇に、河童石と呼ばれる苔むした石がある。
神社境内の高札には、
「河童石は川立神の宿る霊石であり、この神社が大正時代に八幡町から引越しをしたとき、ここに移転した」と、記されている。

河童石(どんく〈方言で蛙〉石とも呼ぶ)
第二次世界大戦末期、応召する前夜、秘かに水神社に詣で、
無事の帰還を祈って、この石の頭を撫でた兵士は多く、
当時から、すでにつるつるになっていた。
渋江宮司によれば、「長崎港を出る船は、五島沖で
敵国の潜水艦の餌食になることが、多かったんですよ」

昔、雨水だけが頼りだった時代、
日照りが続き動物も植物も生きてゆけなくなると、
雨乞いの行事が、この神社で行われ、
神官は石に生えている苔の色で降雨を占ったという。

中島川は、昔は清流で、人々はこの水を飲んだり
煮炊きに使ったりして、生活していた。
ところが人家が増えるにつれて、次第に水は汚れてきて、
清流を好む河童はもはや住めなくなった。

彼らは人家に出没し、
うさをはらすかのように悪さをするようになった。

昔から神社では、川を汚さぬように、役所に願い出るとともに、
毎年5月の吉日を選んで、河童を招待して、
一晩中ご馳走を振舞う珍しい行事があった。

「その日は、拝殿の入り口をぴったりと締め切ってしもうて、
中では河童どもが、たらふくご馳走を食ったそうじゃ。
神官には河童の姿は見えたとじゃが、誰にも見えん。
河童達のきいきい声や、
皿の音だけが外に聞こえたということですたい」

タケノコの料理は、必ず出されたそうな。
神官の皿には採れたばかりの柔らかな所を、
河童達には、育ちすぎてカチカチになった古い所を、
輪切りにして盛りつけてあった。

神官がうまそうに食べるのを見とった河童どもは、
いっちょん食べきらん。

“はあー、人間の歯の強かこと!”

と、敬服して帰るのが常じゃった。
バッテンそれからはもう河童はいたずらをしなくなった。

そればかりか、客が来るときや、神社の祭りがある前の晩に、
河童石の上に、神官が

“あしたは、こげんご馳走をするけん、
野菜のxxや魚を用意しなさい。”

と、書き置くと、 次の日には、
その品物が乗せられておったということですたい。

スーちゃんのコメント



【取材日】 2000年5月12日
【場 所】 長崎市本河内町 水神社
【取 材】 藤井和子

水神社の宮司、渋江家の家柄は、
そもそも敏達[びたつ]天皇の孫の栗隈王の
ずっとずっと後の子孫といわれている。
栗隈王は、水の中に棲む動物をまとめる人であった。
現在の宮司 渋江裕氏は、水神社を護る13代目である。
下のお嬢さんが、神社を継ぐことを決心したそうで、
頼もしい限りだ。

神官夫人とお嬢さんは、不思議なものを見せてくれた。
この神社には、なんと河童の書いた字、
河童文字が神印として残っているのだ。

文政年間の『長崎名所図絵』によると、

「あるとき河童がいたずらをして、片手を切られた。
河童は、手と引き換えに詫び状を書いた。
その文字が判読出来ないので、
水神社に持込み神官に読んで貰った。
それをそのまま奉納した」

と、記されている。

“珍らしか話バッテン、なして河童どもに
人間の書いた字が読めたとやろか?
河童に聞きたかア?”

と、スーちゃんは、聞き真似のにわか長崎弁で考えてみた。
あやしい長崎弁、合ってます?

河童文字
河童文字
右端のが、河童文字。
中央は雲の印鑑と呼ばれ、左端は水神社のシンボル。

次に神社発行の「黒札」というお守りも入手した。
これを身に付けると、川や海の災いから、
ここの祭神である兵統良神
(ひょうすべらかみ、俗称は川太郎[河童のこと]が、
守ってくれるらしい。

本当かな?? 

疑心暗鬼のスーちゃんは、
この取材から1と月も経たない内に、水道の栓を
締め忘れて寝てしまい、危うく階下の住人に、
大層な迷惑をかけるところだった。
水道が全館で故障をしていたため、
寝ぼけまなこで栓をひねったときに、水が出ず、
締め戻すのを忘れたからだった。
幸運なことに、絨毯はぼってりと水を吸ったものの
大事故にならずに済んだ、
という本当にあった話・・・

“そんなの信じませんよ、馬鹿馬鹿しい。”

私メは、そんなタカピーぶった知性を
好きではありません。

眼鏡橋
眼鏡橋
(写真提供:長崎県観光物産センター)