[タコ]婆さん

(長崎県、島原市有明町)

有明ん浜ん沖にひどか石があってな。
そこには大きな一匹のタコが居った。
こん浜の近くにな、中風で寝ている爺さんと
二人暮しの婆さんが住んでおった。

婆さんは海が干[ひ]ると、
かごを下げチ、浜に出かけて行ってな、
[がね]バ採り小魚を採り、
海草をむしっちゃ爺さんに食わせておった。

今日の目当てはタコじゃ、
タコと大根の煮たのが大好きな爺さんのためじゃ、
爺さんは何しろ17年間も寝たきりじゃ。
ふだんは、粟粥[あわかゆ]と梅干ししか、食わせておらん、
せめて潮の引く月に2回位は、
タコバ、食べさせてやりたか、そげん思うた。

(目で文章を追う場合の容易さを考えて、必要に応じて、
会話のみ方言の注を入れます。)

永田香代子さん
永田香代子さん

タコを探し歩いた婆さんは、
いつしか大きな石の近くまで来た。
なんと大きなタコが、足を投げ出して、昼寝をしている!
足一本でさえ、大人の足ほどある大きなタコ!

あんなに欲しかったタコが目の前にいる、
婆さんは、ゴクリと唾を呑込んだ。

人間の臭いを嗅いで、タコは目を覚ました。
すぐ目の前に婆さんが立っていた。
苦労をしてきた顔じゃった。
跡取り息子を持たない、淋しか顔バしちょった
(淋しい顔をしていた)

タコは呼びかけた。

「婆さんや、何か欲しいのかね?」

タ、タコがモノを言う!
婆さんは驚きのあまり、声が出なかった。

「欲しいんだよう、タコ、タコが・・・」

やっと、叫んだ。
タコは、

「なに、なに? タコが欲しいだと?
タコはオレだがね」

と、驚いたように言った。

「婆さん、すると、おまえは、
このおいらが欲しいんか?」

婆さんは、つれあいが17年も・・・かくかくしかじか、
あとどの位、生きるか分からないが、
タコと大根の煮付けを食わせてあの世に送りたい、
と一気にまくしたてた。

タコはじっと沖の方を眺めて、何やら考えているふうだったが、

「婆さん、足だけでもいいか?」

と尋ねた。

「よかよ、よかよ。
足だけでもよかよ」

婆さんは、慌てて口にした。

タコ「慌てるなよ、婆さん。
・・・ちょっと待ちな」

そう言うと、かみそりのように鋭い歯で、
ガリガリ、ガリガリと自分の足を根本から噛み切った。

「ほうれ、持って行きな。
なに、オレの足は、一年もすりゃ元通りになるんだ。
ま、餌をいっぱい食わないといけないがね」

婆さんは、貰った足をかついで、大喜びで家に帰った。

爺さんは、喜んだ。
朝も昼も晩めしもタコ、二人で食べても10日はあった。

腹いっぱいタコを食って、二人は幸せじゃった。

ところが・・・
食べ尽くしてしまうと、又、タコが食いたくなった。
婆さんは、次の潮を見て海へ行くと、2本目の足を貰った。

「な~に、タコん足ば2本取っても、
まだ6本も残っちょる」

婆さんは、のんきなことを考えて、3本目も貰った。

こうなると爺さんよりも、婆さんの方が、

“タコを食わねば、生きている気がしない
(タコを食わんぎら、生きちょる気がせん。)

と、思うようになった。

5本目になると、さすがにタコは顔を曇らせた。
足が少ないと餌を採れないからだ。
タコは、少し腹を立て始めた。

それでもしわだらけの寂しい顔をした婆さんを見ると、
根っからやさしいタコは、
とうとう7本目の足をやってしまった。

7本目の足を食って仕舞った二人は、
朝から晩まで、寂しくて寂しくて仕方がなくなった。

・・・いくらなんでもなあ、最後の足までは貰えない。

爺さんは、こう思って諦めた。

婆さんは、そうではなかった。

“爺さんは、間もなく死ぬじゃろう。
わたしゃ、9つもあん人より若かか!
まだ、長生きせにゃいかん。
タコを食べないと、早く死ぬような気がする
(タコば食わねば、早う死んでしまうごと気のする。)

また、浜に出かけた。

潮は、石の所まで引いていた。
婆さんはそろりそろりと、大石に忍び寄った。

石の上では、たった一本になった足を抱えて、
タコはしょんぼりと入道雲を眺めていた。
婆さんは、モノも言わずに草刈鎌を振り上げて、
タコに飛びかかった。

それっきりだった。

婆さんは、戻って来なかった。

タコの心まで、食おうとした婆さんは、
反対にタコに食われてしまったのだ。

天気のよい日、砂と岩の混じった浜の向こうに、
今でもタコ石が見えるということじゃ。

おしまい
島原の鯉の泳ぐ町
島原の鯉の泳ぐ町
写真提供:長崎県観光物産センター

スーちゃんのコメント



【語り部】 永田香代子さん(昭和29年10月生まれ)
【取材日】 2000年5月11日
【場 所】 有明町総合文化会館
【同 席】 有明童話の会“くすのき”の有志の方々。
コーディネーター 梅林次生氏(当時、島原市立島原図書館長)
【取 材】 藤井和子

この話は、人間の慾にはキリがないことを描いた
ものすごい話である。
何かが欲しくなる、
それを達成すると、次にはまた別の何かが欲しくなる。
慾望で出来たすり鉢の底をめがけて、
滑り落ちるような人間の姿だ。

例えば、美味しいモノを毎日食べたら、幸せだろうな、
きれいな身なりが出来たらうれしい。
いい家に住みたい。会社でえらくなりたい。
世間で認められたい。うんぬん、かんぬん。
もはや果てしもなく、慾望は広がる。

そんな姿を、慾望の行き着く先を、
この民話は分りやすいたとえで、はっきりと否定してくれる。

東南アジアやアフリカの一部では、電気もない、ガスもない、
明日食べる米がないというような、
絶対的な貧困があることは事実である。
今の日本は、このレベルが満たされている恵まれた国である。
そんな中で、慾、これを“物質主義からくるもの”とすると、
これは、いったい何だろうか。

物質主義で得た財物をいくら身にまとっても、
いかにつまらないかを教えてくれたのが、
岡潔氏(奈良女子大学名誉教授、世界的な数学者であり、
1960年に文化勲章を受章。1901~78)
だった。
編集者として数年関わったが、次の言葉を実際に耳にした。

「ゼロを何万回掛けても、ゼロですよ」

物質は消えるモノであり、
そんなものをいくつ得ても意味がない。
消えてしまう物を追い求める努力は、
幻影を追うように虚しいことだという意味であろうか。
23歳のスーは、そう受け取った。
数学という知性に磨き抜かれた岡氏は、
つねに凛とした品位に満ちていた。

翻って、1980年代のバブルは、
国をあげての物質主義ではなかったか。
企業は、金儲け(当時は、竹村健一の造語“財テク”
という言葉に、 かっこよくすり替わったが)
に狂奔した。
本来の、いい製品をつくる地味な企業内努力を評価するよりも、
財テクで、どれだけ労せずに利益を得るかが肥大して、評価された。
(不動産や動産を転がす)企業内財テク、生産拠点の海外移転など、
ことごとく金儲けから発想された出来事であった。

「金さえ儲ければ、いいんだ」

という風潮が社内でまかり通った。

スーの友人に東証一部上場の建設会社の重役がいるが、
80年代、土地購入で社業を飛躍的に拡大出来る
というふれこみの案件に、会社は殆ど乗りかかった。
彼は、「賠償金を支払っても断るよう」重役としてたった一人反対した。
会社の発展を考えないのか、
と非難を一身に浴びて、窮地に立たされたそうだ。

当時はそういう風潮・・・
儲けがありそうなら、他企業を横目でにらみながら、
横並びに走った時代だった。
結果として、この案件は否決されて事なきを得た。
冷静な判断が、会社の将来を救った。

また、性能の優れた製品をこつこつ作るよりも、てっとり早く、
いろんなものを付加して高価に売りまくった例もある。
たとえば、パソコンでは、機能を付加した機種が高価に売れた。
機能が一つよりも二つの方が、値段を上げても、納得されやすい。
複雑な機能を前にして、
「使うのは、この内のどれだけかなあ」と、思ったものだ。
ユーザーは、単機能で使い勝手のいい機種を求めたのだが、
作る側のさまざまなコストを積み上げると、
高価になったのだろう。儲けの巾も大きいことだから。

むろん企業は、利益を出さなくては
おのれの首を絞めることになる。
会社の存続(going on)は、企業にとって
最重要課題であることは当たり前の話だ。

以上、物質主義のリアルな姿を、
バブル時代の企業の例で考えてみた。
バブルが弾け、その後に続く“失われた10年”で、本社の売却や、
社員のリストラや残業代カットなど社員も巻き込んだ
企業の辛酸の日々は、今も記憶に新しい。

放っておけば、限りなく深みに落ちる人間の慾望・・・
これを阻止できるとしたら、それは何か。
ある人は、慾は腹八分目にしておけ、という。
またある人は、慾を前にしたら
人間としての品性、感情、知性を呼び起こせと言う。

この民話は、一見、物質的に恵まれた国に住んでいる私たちに、
あなた方の知性、品性は、どうなっているの、
という課題を突きつけてくれている。

お糸地獄(雲仙)
お糸地獄(雲仙)
写真提供:長崎県観光物産センター