隆信様の火の玉

(長崎県、島原市)

昔、むかし隆信様というて、ひどう強か侍がおられた。
敵に首を打ち切られて戦さに負けたのが残念だったのか、
火の玉になって飛んで出てこられたそうな。

「隆信様の火の玉が出るぞ」

と評判になったばかりか、本当に見た人がいた。

(以下は、吉川キクノ、神田キヨらのお年寄りが、
この火の玉について話し合っているシーンです)

神田キヨさん(キクノさんに)婆ちゃん、
あんたも“隆信様の火が飛んでいるよ”って言うて、
寺中(島原市の地名:じちゅう)のおばさんと騒動して、
見よらしたでしょう?
あん時の話をして聞かせたら面白かよ。
私しゃあの時に、なしてかねえ、見とったとねえ。
あれを(時合さんに)聞かせてやろうよ」。

吉川キクノさん「あの時はね、夜さり、
煎り豆が美味しかったもんだから、
無我夢中で(覚えんようにして)、食べておったとよ。
そしたらひどう喉が渇いて来たもんだから、
納屋に、ポンプ井戸があったろう、そこに差し掛けておった
飯頭瓶[はんずかめ、煮炊きの水を汲み置きする大きなかめ]の所へ、
水を飲みに行ったとよ。
そうしたらホントに、杉谷(地名)にある家から、
こんな唐傘のように 大きな(こげん唐傘んごて太か)火が
飛んで来たっタイね。
火はね、ツイーと一間[いっけん]飛んだら、
何間くらいでもツイーッと先に進むそうだよ
(何間くらいでん、ツイーッと先に進むとよ。)
ツイーッと走り、ツイーッと走って飛んだじバイ」
「あれ! 隆信様の火、飛びよった」
と言うて、寺中のおばさんも走ってきたから、二人で見たとよ。
隆信様の火は、仰向いて見る位の高さの所バ飛ぶとよ。
そんなに高い所には、飛ばないよ(そげん高うは、飛ばんとよ。)
飛行機の、低い所ば飛んで通ることがあるだろう?
あの位の高さを飛ぶとよ。家の上すれすれに飛ぶとよ。
そん時に初めて隆信様の火をよく(ゆうっと)見たとよ。
昔、戦争をして負けられたものだからね、
残念なさにこんな火の玉になって飛んで出ておられたとよ」。

神田キヨ「そういえば、じじやん(ひい爺いちゃんのこと)
隆信様の火を見たと言うておられた。
田に水を張る時分じゃったろうか。じじやんは、
大雨が降った後じゃったので、
夜さりに田の水を外しに行かれたげな。
(注 水外し:大雨の時、稲が一晩の内に水浸しになったり、
土手が切れたりしないように田の水を川に流すこと。)

二軒茶屋(地名)の河原橋があるでしょうが?
そこの堤防の所を隆信様の火が登って居ったと。
火のまわりは、唐傘のように大きかったそうだよ(太かとげな)
その時に隆信様の火をよくよく(ゆうっと)、見らしたそうな。
そう言って、聞かせてくれたよ
(そんなに言うて、聞かせらしたよ。)

そればっか。

スーちゃんのコメント



【話 者】 吉川キクノ
(明治42年<1909年>生まれ、採話時68歳)
【話 者】 神田キヨ
(明治36年<1903年>生まれ、採話時74歳)
【採話者】 時合ハタコ氏
(昭和53年<1978年>1月16日採話)

時合ハタコ氏宅での取材風景(時合氏と梅林氏)
時合ハタコ氏宅での取材風景(時合氏と梅林氏)
【取材日】 2000年5月11日(スーの取材日)
【場 所】 時合ハタコ氏、自宅
コーディネーター 梅林次生氏(当時、島原市立図書館長)
【同 席】 梅林次生氏
【取 材】 藤井和子

時合家は高台にあり、道路越しに平成新山が、
いびつな異様な姿で、
ぐっと身を乗り出すようにせりだして迫っていた。
時合家の屋敷うちの、広い農家風の中庭の周りに植えた
桑畑の木々は、五月の陽を浴びて、柔らかに芽吹いていた。
庭に座り込んだ年配の農婦は、
むしろに座って乾いた小豆を剥いていた。
何時間も何時間も、気長に豆を剥いていた風があった。
眠くなるほどのどかな、五月晴れの日であった。

お話を伺った時合ハタコさんは、島原市南高来郡(当時)を中心に
小学校教員を長く勤めた方である。
在職中に長崎県国語協議会の呼び掛けで、
「子どものための本を発刊しよう」
というプロジェクトに参加したことから、
興味をもって長崎県内の民話を広く収集したという。

「民話は、方言で聞くのが一番大切であり、
採話は聞いた通りに記録する」

をモットーにしている。

冬の島原城
冬の島原城
写真提供:島原市

この話の隆信さまとは、龍造寺隆信(1529~84)のことで、
幾人かの島原市在住者から聞いたことをまとめると、
次のような歴史上の人物である。

時は島原の乱(1637年10月~1638年2月)より以前、
天正13年(1584年)に、龍造寺軍と、連合軍の薩摩の島津軍、
有馬晴信(キリシタン大名)軍は、島原の
沖田綴[おきたばる、またはおきたなわて]で戦いを繰り広げていた。

龍造寺隆信は、当時、九州の覇者であったが、
56歳を一期として、この戦いに破れて、
敵の有馬晴信のために首を打ち落とされた。
使者が首級を塩漬けにして、佐賀の鍋島家に届けたが
受け取って貰えず、川に流した。
首桶は川下に流れず、なぜか上流に遡ったという。

隆信の首級はどこに埋められたか、いろいろの説がある。
島原に墓があり、沖田綴に神社が建立されている。

梅林次生氏によれば、上記の火の玉の話について、
住民は隆信の史実を知らず、
このような形で民間に残ったのではないかという。