やじゃあどんの首

(熊本県、人吉市)

やじゃあどんは、今日は慈眼寺[じげんじ]の茅立て場に
茅切りに行こうと思うて、朝早う起きて、鎌を砥ぎやったげな。
砥ぎあがった鎌をヤンモクの先にイジ藁[わら]で結いつけて、
肩に担いで出かけやったげな。

(注 ヤンモクは、両端をとがらせている担ぎ棒のこと。
イジ藁は、茅などを束ねて縛り付けるのに使う縄の一種)

語る渋谷敦氏(1924年生まれ)
語る渋谷敦氏

途中で沼があったで、沼まで行きやったとき、
天気はよし、蟹[がに]がいっぴゃあ出て、あちこちしとるげなもん、
よう見たところが、蟹の運動会ごたる、
う~ん、先生らしかとが、旗持っとって、用意どん、ちゅうわけだもんで、
さ~あ、蟹どんが、並んで走る走る。

これア面白かバイと思うて、しゃがで見とったところが、
一羽かとが出てきて、ほうしてその蟹が足かくっと(足を掛ける)たい。
ほうすると、蟹がみんな横さん走るどオ、
そうが足引っかけられてひっくり返って動けん、
だんだん正義感の強かやじゃあどんナ、

「アノ蟹な、悪ごろバイ。ありゃ不良バイタ。
よし、オレがやっつけちゃろう」

ちゅうわけで、肩にかついどったヤンモコの先で、
悪か蟹のひい、ふう、さんのエイ、って、ぶち投げたげな。

(全国区の読者の理解のために、会話のみ、後ろに方言を入れます。)

ところがタイ、ぶち投げた時に、
ころっ、ぼちゃ~ん、何か転がりだした(つっこけた)げなもん。

“何だろう?(何じゃろか?)

と、思って見たら、

「これは、生首だ。人の首だ。誰かな?
(ありゃ、こりゃ、生首じゃ、人ン首じゃ。誰[だい]じゃろかにゃ?)

ヤンモコの先で、引っくり返してと見たところ、

“見たような面[つら]じゃ。”

と、思い当たった。

「あらっ、こりゃ、おれの首だ(オイが首じゃが!)

ヤンモコの先に、研いだばかりの鎌をくっつけたので、
“ひい、ふう、えいっ!”と、やったときに、
自分の首を引っかけてしまった。

“しまった。
先生がよく言いなさるように、道草を食ってはいかん。
おれは、道草を食っていけないことをした!
(あいーた、しもた。先生の道草食っちゃならん、と言いなっはった。
おれ、道草食ったでいけんじゃったバイ。)

その首、自分の首を持ち上げて、
誰れも見ていないかな、と、きょろきょろと右や左を見た。
誰も見ていないようだった。
その首を、えいえい、と自分の首に当ててすげた。
さ~あ、早く茅切りに行かねばならないと思って、
急いで歩き出した。

あれっ、不思議なことに、行けども行けども慈眼寺に行きつかない。

“何か反対に向かっているぞ。
いつも左に見えるはずの大平山が右に見える!
(なんさん、反対さん行きよるごたる。
いつも左に見えんバ、大平山の今日は、右に見ゆるもん。)

“ありゃ、反対に行っている(ありゃ、あっちゃんぎ、行きよるバイ。
そしたら、あそこは(アンジラ)古町じゃもん、
フカダザカイ(木上村と深田村の境)じゃもん。)

“あらあら、反対に来ている、何をしているのか?”

と、首をよく見たら、
びっくりしたことに、後ろと前を反対向きにくっつけていた。
(よく見たところが、何とたまぎゃーて、
あべこべに(アッチャンギ-に)首ア、ひっつけとった。)

“こりゃ、しもた!”

と、誰も見ていないかな、と右左を見たが、誰も見ていない。
自分の首を掴んで、ギギギギギと回して、元に戻した。

それから、少し急いで、茅切り場へ行った。

“誰も見て無くて、よかったな(誰も見とらんじゃったで、よかったね。)

と、安心していたが、実は、見ていた者がいた。

茅の陰に隠れて見ていたのは、
キツネとタヌキだった。

「・・・よくやるよ、自分の首を切り落として、逆にくっつけて、
古町まで戻ってきたぜ
(や~や~、もうやるこたーやる。我が首バ切り落として、ちゃんぎひっつけて、
古町まであと戻ってきたぜ。)

キツネ「おい、わしらで何かやろうよ(おいどんも、何かやろうイ。)

タヌキ「何をするのかい?(なーんどぎゃんすっとかい。)

キツネ「やじゃあどんを利用して、二人で銭儲けしようよ
(やじゃバ、利用して、おいどんも、銭儲けしようや。)

タヌキ「どうやって?(どぎゃんすっとや?)

キツネが言うには、

・・・自分は、馬に化けるから、お前はやじゃあどんに化けろ。
坂の下の三五郎どんという銭持ちが住んでいる。
そこへ馬を引っ張って行って、売りつけよう。
(あの おいが馬に化くっで、わややじゃに化けろ。
馬に化くれば、並木の下の屋敷にゃ三五郎どんて銭持ちがおいやったい。
あん人んとこへおいが馬ば引っ張って売りつけよう)

キツネ「高く売りつけて、銭を山分けしよう
(高うで、売りつけて、銭貰うて、二人で分きゅう!)

と、得意そうに言った。

タヌキ「うん、それはよか!
それはよか。いつするや?(そりゃよか、いつすっや?)

キツネ「明日の朝、明け六つ。
滋現寺の鐘がごお~んと鳴ったとき(ちゅうたとき)
おまえはおれの家に来い(わいはおいの家ん来っで)
それから二人連れして、行こうや(そいから二人連れ行こうや。)

二人は指切りゲンマンぞ、と言いながら別れた。

人吉城趾
人吉城址
鎌倉時代から明治2年まで、700年にわたる城主相良家の居城跡。
國指定史跡となっている。
(写真提供:人吉市役所)

二人は、誰も聞いていないつもりでいたが、
どっこい、当のやじゃあどんが、
茅切り場ですっかり聞いてしまった。

“あいつらは、おれを利用して銭儲けしようだって。
ようし、今に見ておれ
(あやっどんな、おいバ利用して、銭儲けするげな、ようし見とれ!)

翌朝、やじゃあどんは、明け六つどころか一時間も早く、
キツネの住処に行った。
戸をトントン、トントンと叩いて、

「ほら、キツネ! 起きれ。
おいぞ、タヌキぞ、もうやじゃあに化けて来たぞ」

出てきたキツネは目をぱちくりさせながら、やじゃあどんを見た。

キツネ「おまえ、よう化けたもんだ。
ん、まあ、そっくりじゃが!」

やじゃあどん「感心せんと、おまえも、早よ、化けろ」

キツネ「おいは、朝飯も食っとらん」

やじゃあどん「簡単なことだぜ。
朝飯前にやれるよ(朝飯前とヤラジャよかごたる!)

キツネ「そいじゃ、おいが今から馬に化くる。見とれ!」

その辺の落葉を頭から被って、
むにゃむにゃ、アブラウンケンソワカ、サン!
と、かけ声をかけると、おおっ、見事な馬に化けた。

やじゃあどん「さあて、馬のたてがみに指櫛[ゆびぐし]立ててやろう
(おいが、馬のたてがみバ、ず~っと探りやってくれよう。)

たてがみを撫でつけて、後ろに回ると、

「跳ねんなよ、跳ねんなよ」

と言いながら、最後に尻尾をさばくと、
見栄えのいいりりしい馬になった。

化け馬を引っ張って、銭持ちの三五郎どんの屋敷を訪ねた。

「おはようございます。だんなさん。起きなんしたか?
よか~馬の、手に入りましたバイ」

と、声を張り上げた。
馬好きの三五郎どんは、馬と聞くと飛び出てきた。

だんな「ど~ら。見せてくれんか(見せてんどま!)

やじゃあどんが、よい馬を引いて、たたずんでいた。

・・・ふうむ。こりゃ、たてがみといい色艶といい、よか馬だ。

見れば見るほど、いい馬だ。

だんな「いくらや?」

やじゃ「10万両」

だんな「う~ん、高か! 7万両にせろ」

やじゃ「いや~ア、だんなさん、7万両で売らりょうか! 10万両!」

だんな「そいじゃ、8万両に負けろ」

やじゃ「だんなさん、7万8万、言わせん! 10万両10万両」

だんなさんは、根負けして10万両を払った。

やじゃあどんは、馬に、おとなしくしろ、と言いきかせながら、
馬屋のかんぬきをかけて、
10万両を手にして、雲を霞と、さっさと逃げ帰った。

三五郎どんは、未練がましく馬屋の戸口から離れられない。
馬をしげしげと眺めては、

“こんないい馬、10万両でも安かったバイ。値打ある。”

と、見れば見るほど、うれしさがこみ上げてきた。

奥の方から、

「だんなさん、朝飯でござんす」

という声がした。

「う~ん」

と、生返事した。

「だんなさ~ん! おつゆが冷えますバイ」

「うん、うん」

「だんなさん、馬を見るのは、後でもいいでしょう?
(馬見っと、後でもよござんすどが)

ようやく腰をあげて、朝飯を食いに行った。

キツネは、馬屋の中でアブラウンケンソワカ、ひょっ!

と、かけ声を掛けると、
もとのキツネの姿に戻った。

「こん、こん、こん」

と鳴きながら、とっとっと走って、慈現寺に戻った。

ちょうどそこへ、タヌキがやってきた。

タヌキ「おまえ、こりゃ何ちうことか。
おいは、昨日約束したように、明け六つに来た!
おまえ、早々と本物のやじゃあどんと二人で、
三五郎どんが銭バ取ってきただろう?
おいバ出し抜いたじゃなかか?」

キツネ「おまえが、うまくやじゃあどんに
化けて来とったんじゃなかか?」

タヌキ「おいじゃなか。あれはやじゃあどんぞ」

キツネとタヌキは、そんなことあるものかとののしりあい、
悪者同士、大げんかになった。

一方、三五郎どんは、うわの空で朝飯をかっ込んで、馬屋に行ったが、
馬の姿は影も形もなくなっていた。

「どうした、あの馬は?(どげんしたや、あん馬は?)

「はい、コンコンちゅうて、山[やんま]サ、走って行きました」

「おやまあ、慈現寺のキツネとタヌキにおれは、だまされた
(いや~あら~、滋現寺のあっどんな、おいバ、だまきゃ~た。)
ぬし共、集まれ!」

三五郎どんの家には、むしゃ~(武士)が10人、
女郎が10人居ったそうだ。

渋谷氏「むしゃ~というのは、下男のことをいい、
女郎[めろう]というのは、女中さんのことですよ」
と説明した。)

下男10人、女中さん10人がてんでに鎌や、なたを手に、

“者共行くぞ、それ行け、やれ行け。”

と、向こう鉢巻して、滋現寺の方に走って行った。
滋現寺の茅立て場を取り囲んで、風上から火をつけた。
滋現寺にいっぱい居たキツネやタヌキが、
どこかへ逃げて仕舞ったらしい。

イ草の植え付け(八代地方)
イ草の植え付け(八代地方)
熊本県は、全国トップのイ草生産量をこなす。
輸入物と違って、ポストハーベストの問題をクリアしているので、健康上も安全。
(写真提供:熊本県)

どこへ行ったのかな。

とくさ~ん

(渋谷さんの、話は絶好調。続きがあるらしい。
渋谷氏「ところがたい、この話、続きがあったとじゃ。
聞くや? 聞かんや? もうよかや?」
耳をぴんと立てて、話を聞いていたスーちゃんは、すぐに言いました。
「続けてよか、よか」
・・・やじゃあどんナ、10万両バ、手にして、何しよっとと思うや?
何バ買いやったと思うや?
ま、こういうふうに、流れるように生き生きした熊本弁でしたね。
方言のかもすすごい所です。)

あのね、長崎へ行って、鉄砲を買ったんです。
10万両の鉄砲!
それはもうピカピカの鉄砲で、そんじょそこらの鉄砲ではない。
それを担いで、大平山に、イノシシを撃ちに行った。
その朝早く、奥さんに頼んだ。

「婆さんや、行って来るぞ。握り飯、握ってくれ」

つづらを背負って、山に登って行った。

大平山のヌクミサコという、陽が当たると気持ちのよい所があるが、
岩陰に大きな牛のごたるイノシシが昼寝をしていた。

“ぐう、ぐ~う。”

と、大きないびきをかいて、ぬくぬくとね。

(渋谷さんのいびきの真似は、割れ鐘のよう。)

やじゃあどんは、狙いをつけると、
自慢の鉄砲に玉を込めて、ビューンとぶっぱなした。
玉は、惜しいことに、イノシシの頭を通り過ぎて、
とても遠くに飛んで行ってしまった。
イノシシの奴も、驚いたのなんの、
起き上がると盲めっぽうにパ-ッと一直線に走って行った。

“しもたッ!”

と思ったが、さすがは、10万両の鉄砲ですね!
向こうの岩にカーンと当たると、引き返してきた。
イノシシの額(ビンタ)に命中したので、
奴さんは、ドウッとぶっ倒れた。
やじゃあどんは、もう手を打って大喜び。

“は~あ、これは大した鉄砲だ。
直接当たらなくて、向こうに行ってしまったけれども、
引き返して当たったよ
(直接当たらんでっちゃ、向こうに行ったって、引き返して、
当たって来たバイ!)

よかった、よかった。”

何かで、イノシシを担いで戻ろうと思った。

“手ごろなカズラは、ないかな?”

と、見回すと、カズラが、目についた。
それを切って引っ張ったら、ズルズル、ズルズル・・・

渋谷氏「何だったと思いますか?(そも何と思うや?)
スーちゃんが首を振ると、渋谷氏「山芋たい」と答えた。)

何と、山芋がズルズルッと上がってきた。
山芋まで、出てきた。
これはよかった、とホクホクしながら、ツトを造ろうと思って、
前に自分の首を切ったあの鎌で、そこらにある茅を切り払った。

注:ツトとは、ワラをつかねて、物を包む物。例:あらまき、ワラづと)

茅の陰に、雉[キジ]が一羽、玉子を抱いていて、
雉の首がひょんと飛んでしまった。

“雉まで、おれの土産になったぞ。”

と、雉を引き上げると、玉子がゴロゴロ出てきた。10個もね。

つづらの中に玉子と雉を入れ、
茅で作った茅づとに山芋を入れて、イノシシを担いだ。

身体中、獲物だらけになって、
やっちゃがっちゃ、やっちゃがっちゃと、山を降りかけた。
谷川の側で、ズルズルッと足を滑らして、川に落ちた。

「あいたっ、こりゃしもた」

ずぶ濡れの股引パッチに何か、にょろにょろ入ってきた。

“うああ、ウナギまで!”

うなぎを掴んで、ツヅラに入れた。

立ち上がったところ、
今度はふんどし(ヘコ)の中で何かがモゾモゾする。

・・・誰も見ていないから、よかった(誰も見とらんで、よか)

ヘコをぱちっと見たら、何とヤマメが三匹も入っていた。

下着を絞って、ツヅラを背にイノシシを担いで、鉄砲で杖をつきながら、

“よっこらしょ、よっこらしょ。”

と、山を降りて行った。

ところがどこでどう道を間違えたか、
トクサ(研草)薮に入り込んでしまった。

(渋谷さんの説明、「トクサ薮って知っとるか? ほら、ジガジガすっと。
昔、あれで刀を研ぎよったげなバッテン」

(トクサ薮って知っていますか? ほらジガジガするあれ。
昔、あれで刀を研いだそうですけど。)

トクサ薮に入ったので、歩けば歩くほど、あっちもこっちも身体中が、
引っかかれた(かかじられた)ようになった。
着ているものもボロボロ・・・

どうにもこうにも身動きが出来ない。

家で待っていた婆さんは、心配していた(もだえていた)

“新らしい鉄砲担いで行ったが、遅いな。
怪我でもしているんじゃないか?
(新しか鉄砲担いで行きよったが、遅かなあ。
怪我でも受けておられんどか?)

夕方、飯を炊きながら待っていたら、

「戻ったぞ!」

と、外で声がした。

「戻ったか、どうだった?」

と、戸を開けたが誰も居ない。
やじゃあどんの姿は、見えなかった。
トクサ薮で、身体がすっかりすり減って、
声ばかりが戻ってきたのだった。

とくさ~ん

スーちゃんのコメント



【語り部】  渋谷敦氏(1924年生まれ)
【取材日】  2003年11月17日
【場 所】  旅館人吉館(人吉市内)
【同席者】  平山信子氏
【方言指導】  原田 敬三氏(熊本県東京事務所、銀座熊本館)
原田 敬三氏
原田さんは、「熊本県のPRに役立てて下さい」と言って、完璧なまでにこの仕事をこなしてくれた。すでに転居していた語り部の渋谷氏を探し出して、テープで聞き取れない箇所を確認した上に、熊本弁の分からないスーちゃんには、方言と共通語のバージョンを明示した印刷物を届けてくれた。日常の業務の他に突如入ってきたことなのに、快諾頂いて感謝。
【取 材】  藤井和子

マスコミに属する記者、編集者、ニュースキャスター、
ライターが属する「日本ジャーナリストの会」の会員8人は、
熊本県の川辺川ダムの建設予定地を訪ねた。
一泊2日の私費視察旅行であった。
このダム計画は、ご承知の通り、訴訟となっている。
建設中止を求める地元訴訟原告団と
事業者の国交省工事事務所の双方から話を聞き、
工事が凍結したままになっているダム予定地の現場と、
水没予定地の五木村を見学した。

見学の予定が終わって、
地元で著名な語り部、郷土史研究家渋谷敦氏から
球磨の民話を語って頂いた。
これが、前段の「やじゃあどんの首」の昔話である。

山間[やまあい]の工事現場は、
コンクリートがむき出しになっており、人影は絶無。
工事中止なので、人も車両も、
影さえない死んだような工事現場だ。
導水用トンネルの口が放置されたままの姿をさらす。

工事中の川辺川ダム建設予定地
工事中の川辺川ダム建設予定地

“一体、どれだけの金がつぎ込まれたのか?”、

“費やしたコストに見合うメリットが、今なおあるのか。”

と、記者一同は口にしないが、思いは同じようだった。
工事用に付けられた道路をさらに登ると、
五木の子守歌で有名な五木村に出る。
山が山を抱くような深い山並みに囲まれた村だ。
立ち退き補償金のお陰で、
居残り組が建てた瓦葺きのぱりっとした家屋が並ぶ。
小高い所にある墓地には、御影石の新しい墓石群が
きらびやかなまでに並んでいる。
人口1600人の大半は老人だが、
門構えの隣家に、
ふらっと好きなときに遊びに行くこともできなくなって、
寂しいご老人が増えたという。
予想もしなかった難問は他にもある。
若者の離村に歯止めがかからないことだ。
伝統的な共同体の変質(壊れたといいたくないが)は、
現実の難問として、村にのしかかっている。

かしどん、びゃあどんは実在の人物という。
(おいおい書くつもりでおります。)
やじゃあどんは、人吉付近に実在したかどうか
分からない人物だが、彼の話は明確に残っている。
人が善くて、かなりのおっちょこちょい。
生粋の球磨方言は、
急流の球磨川のように耳に飛びこんできて、
スイスイと気持ちがよい。
江戸時代のスローライフと素朴なユーモアに、
どっぷりと身を浸しているようで、幸福感に満たされる。

川辺川ダム計画は、1965年7月の
水害を契機に持ち上がったことであった。
川辺川と球磨川の合流する人吉市内の浸水は、
記録的な水位を残している。
何と30分で、2m!
球磨川上流の市房ダムの完成後に、
このような水害が起こったことから、
原告側は、ダムの放流調整に限界があったのではないか、
と疑念をもつが、正確な原因はわかっていない。
農業用水としてのダムの機能を望む要望は、
農業の後継者減少などで、
40年経った今、もはや様変わりしている。
新しいダムを建設すれば起こる漁業への影響や、
環境の激変に、どう対応するか、
迷路に入ったまま出口が見えない。
原告側は言う。

「ダムによって失うのは、安全と昔からやってきた生活。
川と人との自然なつきあいを求めているので、ダムは要らない」

国交省側は言う。

「今までにすでに40年を費やした。あまりにも長い。
これからの事業は10年で完成させるべきだ」

時間がかかれば、むろんコストがかさむ。
その上、産業構造の変化から、
農業の重みや住民の意識が変容したのである。
40年も経って、ダム計画自体が、
もはや陳腐化してしまった。
勇気ある撤退、ということは、容易ではなかろうが、
殆どの住民が「ダムは要らない」という中を、
両者を納得させるどんな名案があるのだろうか。

人吉市に滞在したのは、わずか2日間であった。
平成の「川辺川ダム問題」と、
江戸時代の「やじゃあどんの世界」を、
激しく行き来したことになった。
いわば、膨大な時間を旅したのだが、
スーは、ぐったりと疲れてしまった。

《渋谷敦氏の紹介》

人吉市に生まれる。
高校教師を経て、現在は郷土史研究家。
著書に「青雲遙かなり」(第18回熊日出版文化賞を受賞)
のほかに、 伝記時代小説「丸目蔵人佐[まるめくらんどのすけ]がある。
平成8年熊本県文化功労賞、
平成11年地域文化功労者文部大臣表彰受賞。
球磨地方の民話の語り部の第一人者として著名。
この話は、氏が最も好きな昔話だという。

阿蘇中岳の火口光景
阿蘇中岳の火口光景
(写真提供:阿蘇市)